活動紹介 − 活動レポート
【11.07.15】東日本震災ボランティアに参加して
11日の夜、名古屋発の夜行バスに乗り12日から15日まで 日本共産党宮城県仙南地区ボランティアセンターに参加してきました。
●いちご畑の農作業
活動は主に亘理町のいちご農家の水路や畑のヘドロのかきだし、草刈り、ハウスの解体、畑にたまったゴミ取りでした。7時から11時の作業ですが、楽ではありません。
でも、農家の方からすいかやジュースの差し入れをいただきました。かえってすみません。
●仮設住宅の訪問
二人の豊田市議、八田ひろ子さん、山梨県の党役員さんとともに岩沼市の仮設住宅に要望訪問活動に入りました。
一件一件訪問して、「日本共産党です。愛知県からボランティアできました。国や県市に要望はありませんか?」と行きますと、どこでも「遠くからごくろうさま、ありがとう」といってもらえます。
○日中独居のたいへんさ
8人ほどお話をした中に日中独居(昼間家族が働きにでていて一人になる高齢者)の方二名いました。
◎75歳のおばあちゃんと22歳の孫娘
お孫さんは仙台市のラーメン屋で働いているが帰るのは夜中の10時。そのため買い物もままならず、高齢で目に障害があるため、物資の配給情報もわからないとのこと。「なぜ二人暮らしなのか、ご両親がどうされたのか」など、いつもの生活相談ならばまずお聞きすることも簡単には口にできませn。とても聞くことはできませんでした。
「要望はありませんか」と尋ねた時に「孫娘の結婚相手がほしい」と、まっさきに言われた言葉に、孫娘の将来を第一に案じたおばあちゃんの気持ちが伝わってきました。
◎要支援の女性 余震があるたび不安に
もう一人の日中独居の方は60代女性。3〜4年前から腰や足、ももなど4カ所も大手術。杖や手すりがなければ歩けません。訪問した時には仕事から帰ってくる家族のために食事づくりをしていました。
数分前に震度3の地震があり、「今、余震があったでしょ、怖いのよ、今でも、一人でいるとどうしたらいいか、体は動かないし」と言われました。
私たちが滞在している4日間にも毎日一回は震度1〜3の地震がありました。
体の自由がきかない方には、震度3でも、怖いのです。
さらにその方は、介護審査で支援2が2月の時に支援1に下がってしまったために、週2回の通所リハビリが週1回になり、症状が悪くなってしまいました。
スロープがほしい、というのも切実な要望でした。仮設の入り口は、基礎がある分段差があって、「降りるとき足が痛くて怖くて泣けますよ」と。
◎二重ローンをなくしゼロからの出発を
「自動車のローンも二重になる、なくしてほしい」という思いも切実でした。田んぼに横たわる船、東側が削られて住めなくなった家屋、水につかって使えなくなった農家の農機具、どれだけローンが残っているのか、それを思うだけでも、日本共産党が提案した「ゼロからの出発、ローンの国による買い取り」を実現させなければならないと胸がつまりました。
◎集団移転先を早く
沿岸で農地も自宅も被災した農家の集落。仮設住宅は阪神大震災の教訓に、コミュニティを守るために集落ごとに入居できました。
「早く家を建て直すために移転候補地を市や国が探してほしい」被災者の思いは千差万別です。
ほかにも家族散り散りに逃げて6ヶ月の孫を、一晩中おぶって夜を明かし、家族を捜した女性の話など聞きました。
◎敵を見間違えることなく 国会への抗議と復興支援
被災者の間でも「義援金の配分が不十分、一人暮らしでも6人家族でも1世帯同じ金額」「仕事がない人とある人の生活の水準が違う」「車がない人は仕事がない」など格差が生まれ、被災者同志の反発にもなりかねない状況がありましたが、「国は総理がやめろだのなんだのいっている場合じゃない、あの松本復興相は一度も被災地を見に来ていない、まずは知事の労をねぎらうべきではないか」と怒りを露わにされた方もいました。
敵を間違えることなく、地元からの復興を私たちの世論で支えていかなければならないと思いました。
◎被災地でがんばる日本共産党
千人の住民が地震から40分で津波にのまれた閖上(ゆりあげ)地区の日本共産党支部の支部長にお会いしました。
地震前日、後援会で「懇談会をやろうね」と話していた人たちが翌日には津波の犠牲になってしまった、その悲しみを癒すまもなく、震災直後から日刊紙の配達を開始されたそうです。読者も散り散りでどこにいるかわかりません。しかし、仮設では、「昔読んでいた、とってもいいよ」「新聞読みたい、入れてほしい」など新聞赤旗読者がぼちぼちと増えているとのこと。まさに、震災の苦悩の中でも党の灯を消してはならないという日本共産党の不屈さを感じました。
◎物資お届け隊に参加
名取市内の雇用促進住宅の空き地にブルーシートを広げ、岡崎の新婦人からの米や洗剤やTシャツ、そのほか食器、ティッシュ、タマネギなどを並べて、議員が宣伝カーで「日本共産党の物資お届け隊がきました」と流すと20名ほどの方たちが集まってくれました。お米はたいへん喜ばれ少し遅れて来た人になくなってしまったのが残念でした。
亘理町消防長と懇談
岡崎市消防庁のご助言で、愛知県消防隊が震災翌日に派遣された亘理町の消防長のお話を聞くことができました。
携帯電話も一般電話も通じず、駆け込み通報が唯一でしたが、それでも通報の現場に行くまでに何人もの人が 屋根に上り、木に登り 助けを求めていると 途中でも救助に入り、通報のあったところまで数時間かけなければいけなかったというお話は本当に被災直後のご苦労を彷彿させるものでした。
ゴムボートもがれきなどにあたって パンクしてしまうので使うことができない中で多くのけが人を救助され、ご遺体を収容されたことは筆舌に尽くしがたいと想像します。
ありがとうございました。