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【21.08.01】平和を考え祈る八月 岡崎空襲から76年

空襲展、語る会、慰霊祭で、風化させない長年の努力

  (岡崎市戦災復興誌より抜粋)
漢字等は原文のママ

 「岡崎市の大規模空襲は昭和二十年七月二十日払暁(あけがた)に行われたが之より先一月五日、五月十四日の二回名古屋空襲の余波を受けての爆撃が行われた」


事前2回の空襲

「即ち五時十九分頃警戒警報が発令されて間もなくに十分ごろ洞町に六ポンドの焼夷弾が投下され戸数八戸二百五十坪を焼失した。午前七時救護班が現場に出動したが、傷害なく八時帰着した。
 ついで五月十四日六時十八分警戒警報、七時五十四分警戒警報が発令されて、八時五十分ごろ洞町に六ポンド油脂焼夷弾が投下され住家二戸五十坪が焼失した。」

七月二十日 総勢九十機襲来

「七月二十日の空襲は午前〇時四〇分よりB29八十機によって六ポンド油脂焼夷弾及エレクトロン、並に大型(百キロ)焼夷弾が投下された。これにより

全焼七三一二戸、
半焼一三〇戸、
焼失面積六〇万坪
死者二〇七名、
行衛不明一三名、
重傷一三四名、
軽傷二一四名、
罹災人員三二、〇六八名

であった。」

空襲の状況

  「昭和二十年七月十九日八時四六分空襲警報発令同十時解除になったが再び二十三時空襲警報が発せられ、ラジオのブザーは気味わるく響いて敵機の編隊の本土空襲を報じたので、岡崎市民は今夜こそと胸を躍らせたが,夫れは福井市爆撃の編隊であった。
(中略)
 二十日午前一時五十二分頃、逆に渥美地方より飛来した一編隊があって、突然上空に現れ焼夷弾の雨を降らせ初めた。
 最初の火の手は明大寺方面に上った。次いで大西山へと岡崎市街を包囲する形で次々と油脂焼夷弾は投下された
 火災は漸次中心街にも起り、空には焼夷弾落下の際に起る火花がヨーラク(珠玉や貴金属を編んで、頭・首・胸にかける装身具)の如く、地には火災と戦う喚声、逃げまどう老幼の叫声と共に『岡崎市民諸君頑張って下さい』とのラジオの叫びが混じって聞えた。敵機は所謂波状攻撃で、上空を投弾しつつ一巡しては立去る岡崎市を襲うた敵機は総計九十機と東海軍司令部は報じていた。
この波状攻撃は一時間半に亘って繰返えされ、午前四時頃警報は解除された。
(中略)

翌日も機銃掃射

「二十日の正午頃、上空から機関銃声が俄かに鳴り響いた。
(中略) 
美合駅でも機銃にやられて負傷した者もあった。戸崎町では、東京から疎開してきた母娘の二人が畑で作業中、艦載機に襲われて、娘の首が飛んでしまって母親の気が狂ったのもあった。」

(その後、市民による調査の中で、死者数などは変更されています。)

 

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