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【12.08.05】鈴木まさ子さんはこんな人

岡崎で生まれて育って

  1960年、岡崎市羽根町に生まれました。父は名鉄バスの運転手、母はまさ子さんが中学の時から生命保険の外交員をして共働きでした。
羽根小学校時代には児童会の書記、南中学校ではテニス部のキャプテンを務めてきました。岡崎北高校時代はひたすら大学受験をめざして机の前に座っているという3年間でした。
名古屋大学に入学して混声合唱団に入部。そのときに戦後の占領下での沖縄の人たちの闘いを歌った「沖縄」やアメリカで虐げられた奴隷の中から生まれた黒人霊歌などを歌う中で、世の中の矛盾や差別に気づき、自分が送ってきた競争を強いる受験生活を振り返り、人間性をなくしていく今の教育のあり方にも疑問を持ちました。

夫ともに米屋を開業

 大学卒業後、進路に迷いアルバイトをしながら模索していましたが、東京の医療器械商社に入社。販売促進部門を担当しましたが、2年後に親戚が営んでいた米屋の後継者の話が持ち上がり、夫とともに帰郷。
1988年太田米穀駅西店を家族とともに開業しました。冷害による米の不作で外米を販売せざるを得ないときは本当にお客様に申し訳ない思いでした。岡崎民主商工会婦人部の活動を通じて多くの業者婦人が、子育て、介護、営業、従業員の世話、銀行との交渉など何重もの役割を担いながら社会的に評価されていないことや、繊維など外国製品の流入で工場をたたまなければならない人たちの涙をみてきました。

「まちづくり」が立候補の原点

 1993年(平成5年)、岡崎駅西土地区画整理の精算金問題がもちあがり、「高すぎて払えない」「妥当なのか」との声を受け、区画整理についていちから勉強し、当時の尾藤輝夫議員と連携をして、地域住民とともに請願や市との交渉にとりくみ、あっせん融資制度を作らせ、一部金額の修正を行わせました。
 1996年、市議会に初当選。その後、子どもの医療費無料化やまちづくりの問題に取り組んできました。2004年に制定したまちづくり条例は、開発の事前に説明会を義務づけるという大きな成果を得ました。
16年間、「住民の立場に立ったまちづくり、開発問題では議会では第一人者」となっています。

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鈴木まさ子 中根よしあき
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